奈多宮の一の鳥居に「豊臣」とある。長岡(松井)興長のものである。興長の父・康之は細川軍の先鋒を務め、その働きぶりに感心した豊臣秀吉は、康之を石見半国十八万石の大名にとりたてたいと申し出たが、康之はこれを辞退した。
慶長元(1596)年秀吉の命により近江国坂本の城主であった杉原長房が三万石で杵築城主となった。杉原長房は秀吉の奥方「ねね」のいとこにあたる。つまり「ねね」の実母である朝日と長房の父家次が兄妹である。ちなみに「ねね」の実兄である家定の長男が日出藩主木下延俊(のぶとし)で、この時は姫路城主であった。