薬師如来は人々を病苦から救う仏として早くから信仰され、特に古代仏教にあっては主流をなす信仰である。六郷満山中山本寺の一つである横城山東光寺は最後の修行の場として六郷満山の中心の寺であった。発掘調査による経塚遺構からの出土遺物からは、少なくとも平安後期、12世紀前半までに遡るとみられる。記録上では、鎌倉前期の貞応2(1223)年、豊後守護大友能直が末子仁王丸(志賀能郷)に譲った所領・所職のなかに、「横城山院主職」とある(「大友直能譲状」志賀文章)のが最初である。
現在の東光寺は、本堂と称する小堂に室町前期頃の本尊薬師如来立像のほか、江戸前期頃の日光・月光菩薩立像、十二神将像、そして平安後期頃の如来立像が安置されている。明治23年の「寺院明細牒」では、本尊庫裏以外に「薬師堂」がみえており、本来はこの方が東光寺の(寺院からしても)中心的建物であったと思われる。あるいは、平安期如来立像(両手欠失のため尊名不詳)は薬師如来で、当初からの本尊ではなかったか。
六郷山をはじめ天台山岳仏教にとって、薬師如来に対する信仰には特別の意味があったとみられる。延暦7(788)年、天台宗の開祖最澄が初めて比叡山に入り、草庵を結んだのが薬師堂(のちの根本中堂)であった。そして、最澄がその本尊としてみずから木を伐り彫刻した五尺五寸素木の薬師如来像({「山門堂舎記」)を、その没後に彫刻した一連の薬師像は、いわゆる「天台薬師」と呼ばれ、最澄の思想を具現するものとして重要視された。国東半島の六郷山にあっても、安貞2(1228)年の「六郷山諸勤行并諸堂役諸祭等目録」にみるように、8ケ寺が薬師如来を本尊としている。いずれも平安時代に遡る古作がほとんどであり、しかもその多くが半島東部に所在する。このことは、国東六郷満山の薬師信仰が、多くは瀬戸内海を介しての天台系山岳仏教の西漸にともなうものであったことをものがたっている。