奈多鎮基(しげもと)

 大友宗麟は女(娘)を、奥方の甥の鎮基(しげもと)の室に入れた。そして大友氏と奈多氏は一家同様になった。鎮基は鑑基の孫として生まれ、叔父に当る田原紹忍、叔母に当る宗麟夫人、従弟に当る大友義統(よしむね)や同従弟親家、親盛等を背景にしながら成長したのであるから、生まれながらにして相当な地位と身分を持っていた。父政基は立花陣で戦死したが、祖父鑑基は未だ陣頭に立ち、宗麟を助けて高良山、彦山の戦いの戦後処理をしていた。永禄12(1568)年10月、鎮基(しげもと)は家督を継ぎ、奈多宮大宮司職と祖父同様に大友氏の社奉行を継いだ。

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 「俗名奈多左ヱ門鎮基と号す。相続ありて、是は九年の領主たりしが、実子なくて京都より久我殿の子息・万福丸を養子にし給う云々。彼の屋敷跡、今に有之、雪江院と申す。菩提寺は今の大宮司井門の居所也。」
 天正6(1578)年、日向土持親成討伐では寄騎衆の糸永、尾方氏らを伴って出陣した。安心院公糺(きみただ)の押領(おうりょう)や到津公澄(いとうづきみずみ)の誅殺(ちゅうさつ)などの事件をおこしている。天正7(1579)年、宇佐宮は奈多鑑基・鎮基による一連の行動を弾劾し、彼らを「天下希代の悪逆」の者と訴えている。しかし、奈多氏の一連の行動の根幹には旧秩序の否定という大友氏の基本政策に沿ったものであった。宇佐宮と大友氏のの対立は結果として天正10(1582)年の大友氏の宇佐宮焼き討ちという事態を引き起こした。鑑基・鎮基は大友氏の尖兵として九州きっての宗門権門であった宇佐宮の終焉をもたらした。

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天正6(1578)年9月に日向高城耳川合戦に出陣した。耳川合戦は大友氏と島津氏との激戦で、島津氏の勝利に終わり、大友氏の衰退を決定づける戦いになった。一方、天正8(1580)年、「田原親貫(ちかつら)の乱」で戦功をあげた。天正12(1584)年、筑後上妻の「黒木家永[いえなが](実久)の乱」でも参陣し戦功を挙げた。天正14(1586)年、秋月種実(たねざね)の日田郡侵入に対して大友軍の先鋒として迎撃し、秋月軍を撃破した。
 秀吉軍の支援を受けた大友勢が島津軍と戦った「戸次河原の合戦」に加わったが、戦いは豊臣・大友軍の敗戦となった。天正15(1587)年、鎮基は死亡し、養子万福丸が継承した。養子万福丸は公家久我晴通から迎えたものだが、のちに京都に帰ったため奈多氏は断絶した。

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