田原親賢(ちかたか)が、天正年間前半(1570年代)に出した書状が、豊前国下毛郡の領主蠣瀬(かきせ)氏の元に残っています。「一符の内上市(うえいち)岩田与三兵衞入道の事、計屋(はかりや)の儀に候条、上毛(こうげ)郡・下毛郡の売買人は、彼の者の所へ罷(まか)り著(つ)き肝要の段、申し付けらるべく候」
豊後府内の上市町の岩田与三兵衛入道が大友氏公認の計屋商人であるので、豊前国上毛郡・下毛郡からの商取引を行う際には、まず岩田氏の元に荷降ろしをせよ、との大意です。
16世紀の後半の日本では、商取引の決済が銀で行われていた。しかしながら、この時代に銀を計量するはかりや分銅は、地域によって規格が異なる。そこで、北部九州一帯に領国が拡大した大友氏は、他国の商人が豊後府内に来て銀取引むをする際の計量商人を指定して、衡量商人を指定して、衡量の統一を図ります。その経済政策の一環として、豊前の方分(ほうぶん)だった田原親賢は、担当する豊前の商人にこのお触れをだしたのです。