田原紹忍(じょうにん)の末期

 文禄2(1593)年に大友氏が改易された後は紹忍も所領を没収された。その後、豊後岡城主中川秀成に与力として仕えた。 
中川秀成(ひでなり)に先立つこと二ヶ月ほど前、豊臣秀吉は大友義統(よしむね)旧臣田原紹忍に、直入郡内の土地約3000石を与えている。秀成の所領と近接する直入郷松本名、柏原名(どちらも現竹田市)の土地である。
 慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いに先だって旧主・大友義統(よしむね)が、毛利氏の手引きで西軍で挙兵すると他家に仕えていた宗像鎮続(むなかたしげつぐ)や吉弘統幸(むねゆき)をはじめ豊後各地から集まった大友旧臣らとともにこれに従った。しかし石垣原の戦いで鎮続(しげつぐ)、統幸(むねゆき)は討死し、吉統[よしむね(義統は改名)]は黒田如水(じょすい)に降伏した。紹忍は柴山重成のもとに身を寄せて中川氏に帰参するも、西軍方の太田一吉との戦闘(佐賀関の戦い)に参加して銃弾にあたり、討死した。

CIMG1608

<スポンサードリンク>

<スポンサード リンク>