奈多鑑基は、大友氏の武将としてたびたび合戦に出陣した。永禄4(1561)年、大友宗麟の中津・小倉方面の戦いに、鑑基は神兵を率いて出陣した。正月8日鑑基より泥谷亀徳に「奈多宮の社領、中津郡内生田の内三町領せしむの知行書」「朝来野の内8反畠2反を領せしむ」(泥谷文書) 永禄5年、大友宗麟から糸永越中守に対し「豊前国に於て其方奈多鑑基と共に長々在陣勤労すべし」(糸永文書)
永禄5年(1562)の豊前苅田松山合戦、同8(1565)長野筑後守の討伐、同12(1569)年、下毛郡高田、来縄郡への出陣等武家としての活躍も多い。
天文20(1551)年、大内氏滅亡によって、大内氏の務めていた豊前国守護職は大友氏の手に渡った。そして新たに豊前国を支配するようになった大友氏は従来の秩序や支配の在り方を否定することを基本とし、それは九州最大の荘園領主であった宇佐宮も例外ではなかった。こうした大友氏の宇佐宮支配を実務的に担ったのが、社奉行の奈多鑑基であった。
永禄期(1558~70)頃、大内氏の勢力が北九州から撤収したことで、社奉行の地位を利用し、宇佐宮だけでなく豊後・豊前・筑前の神社を統括した。これは宗教としての支配ではなく、当時の寺社は広大な荘園を領有しており、その経済的な支配でもあった。鑑基は豊前宇佐神領の社領を奪取し、宇佐宮社家との紛争を繰り返した。そのなかで永禄4(1561)年、宇佐大宮司到津(いとうず)館を破壊した。大友社奉行奈多鑑基は宇佐宮大宮司到津(いとうず)公証と争い、「其の領地筑前山野村に城す鑑基の兵に攻められて戦死す。鑑基其の領地を没収し到津家を倒さんとす云々。」
永禄7(1564)年、の宮成公建領の横領も起こしている。大内氏の滅亡後、毛利氏が豊筑に幾度となく侵入を繰り返した。[永禄8~12年] 毛利の侵入によって筑前の諸武将は動揺した。大友宗麟は肥筑の野に兵を出すや或は宗像に或は高良山に攻め入ったが、斯る神社仏閣に関係する攻略は容易でない。その間の交渉折衝の任に当ったのが奈多鑑基であった。[永禄8年7月15日、立花陣にて奈多政基戦死、その子鎮基継ぐ]
奈多鑑基は晩年、豊筑の野に転戦し、宗麟の征く所、影の如く従軍し、或は戦いに或は戦後の使節となり、和議の折衝に当った。数々の合戦に出陣し、戦功をあげた。しかし、永禄12(1569)年筑後立花鑑載攻めに参戦し45歳で陣没(病死)している。[7月15日]