奈多氏と大友氏

なぜ大友氏は奈多氏と手をくんだのか?
大友義鎮(よししげ)[宗麟]は奈多鑑基(あきもと)の娘を正室にした。
奈多鎮基(しげもと)は宗麟の娘を正室とした。
鑑基の鑑は宗麟の父・義鑑(よしあき)から、鎮基(しげもと)の鎮は義鎮(よししげ)からとっている。
奈多鑑基、鎮基ともに大友氏の寺社奉行として活躍しました。
また鑑基の次男[親基]は田原家養子となり、田原親賢(ちかたか)となり、
大友家の重臣となり、宗麟・義統(よしむね)を支えている。

CIMG3247

奈多氏は鉄資源と蓑崎湊(現美濃崎)を起点とした強力な水軍を擁していた。
しかも安岐郷や武蔵郷等を神領とし、国東半島全域に隠然たる勢力を有していた。
港を領する国衆の特権を取り上げなければならない。八幡神は武神にあがめられているが、海の神でもある。
豊後や国東半島の国衆は、八幡奈多宮を本所(ほんじょ)とあがめていた。大友家が豊後の真の主(あるじ)になるためには寺社の不輸不入権を否定しなければならない。
 大内義興(よしおき)は永正5(1508)年、管領となり、翌年豊前守護職となり、豊後に迫ってきた。[(天文3・1534)年、大内義興は3000余の兵をもって宇佐郡から豊後を攻めさせた。大牟礼山(おおむれやま)、勢場ケ原(せいばがはら)の戦いとなった。]この大内氏と関係を深めていたのは八幡宇佐宮である。宇佐宮は弥勒寺領をあわせたものが2693町歩余で、豊後国全面積の約3分の1、荘園の46%弱を占めていた。
 大友氏が戦国大名としての地位を確立するために八幡奈多宮の大宮司を兼ねる奈多氏と手を組む必要があった。

CIMG2971

<スポンサードリンク>

<スポンサード リンク>