得体の知れない神

 六世紀末、朝廷は仏教と融合した原始八幡と帰化人の勢力を利用するため、蘇我馬子のうしろだてで大和の大三輪(おおみわ)シャーマン大神比義(おおがのひぎ)を宇佐に移し、応神信仰を八幡に入れた。そしてひめ神と合体する。のち禰宜(ねぎ)の神として大帯廟(おおたちびょう)が成立し、神功皇后が祭神に加えられた。

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 「八幡」と書いて「はちまん」と読むのはウソで、正しくは「ヤハタ」と読む。「ヤハタの神」と呼ばれたのは八つの幡(はた)を祀ったとも伝えられている。これは、のぼり、旗、または織物といい、武神または工芸神をあらわしている。八幡の八は、数の多いことを意味し、幡の名称については、地域共同体を営んでいた氏族が、外来帰化人の秦氏系であったことからきた名称だとする説と、土着地域共同体(部落国家)の信仰が、古代の山畑農耕の祭祀儀礼によるところからきたという説もある。
 八幡神が、武神としてあがめられたり、鉱工の神、海神、農耕の神、火の神などと雑多な尊崇をうけているが、それなりの理由が存在する。祭神が三体あることからも想像される通り、決して単純なものではなく、いろいろな性格をかねそなえた複合的な神である。発生、性格について異説がある神社であり、おそれ多いが、もっとも得体の知れない神である。
 三神像についても本来国宝であるが、慶長の大津波によって文章などが流出したために残念であるが、重要文化財に降格している。

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