三神像の主神は比売(ひめ)神である。比売神は安岐郷奈多社の神である。
比売神の脇侍に応神天皇と神功(じんぐう)皇后がいる。
神功(じんぐう)皇后は、「日本書紀」によると仲哀(ちゅうあい)天皇の皇后である。「古事記」では母は新羅(しらぎ)国の王子の孫にあたるという。仲哀天皇は熊襲(くまそ)を討つために筑紫(つくし)の現在の香椎宮(かしいぐう)に来た。筑紫に赴いた仲哀天皇は、「海のかなたの宝の国を授ける」という神託を得た。その宝の国とは先進文明に輝く朝鮮半島諸国ののことであったが、これを信じなかった。ここで仲哀天皇は急死する。そこで神功(じんぐう)皇后は、臨月であったにもかかわらず新羅に遠征し、新羅を討った。帰国後、筑紫の宇美(うみ)で後の応神(おうじん)天皇を出産した。さらに、神功(じんぐう)皇后は大和に入り、二人の王の反乱を鎮定し、応神の即位まで摂政として政治を執ったという。
応神天皇の実在性は有力視され、「宋書倭国伝」のいわゆる「倭の五王」のうちの最初の王「讃」をあてる場合が多い。応神天皇の時代は朝鮮半島を通じてさまざまな技術集団が渡来し、農地改良、馬、太刀、縫製、典籍などをもたらし、技術の改革、文化の振興がおこなわれた。応神天皇は大阪の豪族であり、そこから大和に入った。神武天皇東征神話は神武天皇の大和入りの事情を反映しているのではないか。「続日本史」に「八幡」という文字がある。現存する古文書の中で使われる「八幡」という摸試の中でもっとも古い。八幡神のルーツは3世紀後半の応神天皇に遡ることになる。応神天皇は八幡神と同一視され、天皇が神として祀られるようになったのです。