八幡奈多宮の正面の鳥居に「豊臣氏」という文字があります。
「長岡(松井)佐渡守豊臣氏興長」と書いています。寛永19年(1642)
徳川は秀吉の遺児を殺して豊臣氏を滅ぼした。しかも大阪城の堀まで埋めました。
すべてを抹殺したにもかかわらず、奈多宮の正面に堂々と豊臣氏の文字を書いているのです。
しかも、大友氏の後に小藩に分立し、それらを監視するものとして杵築に松平氏を派遣したのであった。
なぜ「豊臣氏」という名を容認したのか。長岡興長は何を考えていたのか。八幡奈多宮がそれだけ権威がつよかったのか。
奈多宮の楼門にある一番手前の鳥居と御幸門の前の唐獅子像の所にある手水鉢は、共に長岡佐渡守興長の寄進によるものである。
長岡佐渡守興長は、杵築城城代松井佐渡守康之の養子で、細川三斎の末子である。後に松井姓を長岡とかえる。細川氏が肥後に職封となると興長も肥後八代3万三百石の城主となった。この間、杵築在城は三十数年間に及ぶ。
領主細川忠興は慶長元年(1596)の大津波で破滅した奈多宮の再建費用として白銀三六貫目を奈多宮に寄進している。そして城代長岡式部少輔に社殿の再建を命じ、本殿と拝殿を造営した。時に寛永四年(1627)九月十日となっている。