原始的部落国家の時代、安岐の奈多社には氏神が祭られていた。比売(ひめ)大神は奈多社に国境の神として出現していた。つまり御祭神である比売大神は、国前郡奈多沖の市杵(いき)島に示現された。(宇佐八幡御託宣集、古事記伝)
隼人征討の功により、聖武天皇は神亀二年(725)宇佐宮を創建させた。さらに聖武天皇は宇佐宿称公基(うさすくねきみもと)に勅して新たに宮殿を造営させた。ここに天平元年(729)奈多宮が創建されたのであった(本宮)。
天平勝宝元年、奈良の大仏開眼にあたり、宇佐宮臨幸の際の往還の際、奈多宮に駐輩された(東大寺要録)。一条天皇の永延二年、「この宮は初中後(過去、現在、未来)にわたって最上の八幡である」として「日本斎場八幡初中後廟」の十字の額を、時の大宮司大和守侍従宇佐宿弥奈多国基に賜った。さらに関白藤原道長は「一宮海雲楼」「三韓降伏」の額を楼門に掲げた。大江匡房(まさふさ)は「一楼台」の額を奉納した(奈多宮鎮座記)このように朝廷は奈多宮を極めて厚く尊崇したのであった。
天平18年(746)聖武天皇は不予の祈祷のため、八幡神を重視した。天災、疫病、朝廷内の病気、中央政界の大混乱(道鏡事件)等大変厳しい状況の中で、八幡神を尊崇した。八幡神は伊勢神宮をしのぐ経済力を有するようになった。
延暦22年(803)最澄が渡海の安全を祈って、八幡に参詣した。これから八幡は天台宗と結び、山岳仏教に転換する。八幡神の母菩薩としての人母=神母=仁聞(にんもん)菩薩の信仰がひろまり、独特の国東文化が開花するようになった。