大和政権の成立と豊洋の関係

「魏志倭人伝」によると南鮮の鉄を採りいれたと書いてある。倭にとって朝鮮はあこがれの地であった。文化の花咲く中国への道程であり、新しい利器である鉄の生産地でもあった。半島南部の金海地方には以前から倭人が住んでいた関係もあって、南端の小国家群を統合して任那と呼ぶ直轄植民地をつくった。336年には任那の卓淳王の仲介で使者・斯摩宿禰(しますくね)を百済王に送り、翌年には両国間の朝貢が成立した。さらに369年に初めて南鮮に軍隊を送り、新羅を破った。こうして倭の朝鮮経営は本格化したが、4世紀末、南下した高句麗の広開土王との激戦で次第に朝鮮経営は苦境にたっていった。この進出が国内の繁栄に大きな要素をつくったことは当時の陶部(すえつくりべ)などの職業的部民の多くが朝鮮人であったことからでもわかる。新羅の勢いが強くなって、任那日本府は滅ぼされ、半島での日本の勢力は後退した。それまで銅と鉄は大陸から持ち込まれたものである。そこで注目されたのが宇佐の銅とわが奈多の鉄である。

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奈多海岸には以前は砂浜が真黒になっていた。砂鉄である。砂鉄をとる業者が存在し、現在の豊洋小学校のグランド横にトロッコのレールがあって、そこから国東線で運ばれていた。製錬をしていた痕跡である。「ふいご」という製鉄の道具も奈多には存在する。人々は大陸から伝えられた「タタラ」という製鉄方法で鉄をつくった。今日の「タタラ」の遺跡は傾斜地で、清水の出る所、薪の豊富な所に残っている。狩宿の金糞原(かなくそばる)、伊東安男さんの屋敷の所、横城の金山(かねやま)、谷川の金山、横城の池尻、志口の天神など多くの所で焼かれていた。この鉄づくりで大きな力をもっていたのが豊洋地域の豪族であった。

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