奈多夫人・宗麟の正妻

 八幡奈多宮の大宮司・奈多鑑基(あきもと)の娘として誕生。大友宗麟の正室は正室・一色義清の娘がいたが、1550年、二階崩れの変の後離縁した。天文19(1550)年~天文20(1551)年頃、義鎮(よししげ)[宗麟]に嫁いだ。奈多夫人は一度夫と死別しており、この結婚は娘を連れての再婚であり、当時22歳位であった義鎮より年上であったという。そして奈多夫人は1558年義統(よしむね)、1561年親家、1567年親盛を産んだ他、娘も4人いる。連れ子である娘は、二階崩れの変に尽力した家臣で豊後・岡城主志賀親次に嫁ぎ、志賀親次を産んでいる。永禄7(1564)年には、奈多夫人の娘と毛利元就の8男の末次元康が婚約するが、まもなく破談する。

CIMG3373

 天正3(1575)年11月、息子の親家がキリスト教に入信し、これにより下層階級が中心だったキリスト教は大友家中に広まっていった。一方、奈多夫人は、久我中納言に嫁いでいた娘に仕えるエステバンというキリシタン少年が、仏寺から護符をもらってくるようにという奈多夫人の娘の言いつけを拒否したことに怒り、棄教しなければ死罪にすると申し渡したが、彼が棄教を拒んだため、この時、家督を継いでいた長男大友義統(よしむね)に命令し、エステバンを殺させようとした。しかし宗麟が間に入り、事なきを得た。さらに親家に棄教を迫った。
キリスト教と敵対する奈多夫人を、宣教師らは、イスラエル国王マハブの妃で、預言者エリヤを追放した「イゼベル」にちなんで呼ぶようになった。天正5(1577)年4月、奈多夫人の兄・田原親賢[ちかたか、紹忍]の養子である田原親虎と、奈多夫人の娘の婚約が決まっていたが、親虎がキリスト教に入信しようとする。この時、奈多夫人は兄・田原親賢と共に、キリシタンになるのであれば婚約破棄はもちろん廃嫡すると言い渡し、さらに親虎を豊前に移してキリスト教から離れさせようとした。しかし、親虎は洗礼を受けたため、奈多夫人らは親虎を軟禁し、棄教を迫った。奈多夫人の子でキリシタンになっていた親家が彼を励まして親賢(ちかたか)を激しく非難し、親虎への迫害を止めるように訴えた。(結局、親賢は親虎を廃嫡した。)これに激怒した奈多夫人は親家をもはや我が子とは思わないとし、面会を避けるようになった。
 宗麟は7人の側室を持ち、家臣の美人の妻を奪って自分の側室にするなど好色であったため、夫の浮気の虫を鎮めるために国中の僧侶や山伏らに調伏させたという。宗麟がキリスト教に傾倒するようになってからは、八幡奈多宮の大宮司の娘である奈多夫人と宗麟は信仰を巡って度々争うようになった。天正6(1578)年、奈多夫人の侍女頭で、親家の妻の母である「ジュリア」(夫とは死別)を宗麟は側室とし、臼杵城下に屋敷を建てて住まわせた。そして奈多夫人を絶縁した。
 西方寺(大橋寺)の祐範上人を、奈多夫人が深く帰依していた。永禄7年7月、死去したので宗麟は大橋寺に葬った。夫人の菩提のため寺浦に宝岸寺を建立した。

CIMG1562

<スポンサードリンク>

<スポンサード リンク>