古代の地域名のうち、漢字で豊かさをあらわしているのは豊国だけである。「豊後風土記」の冒頭に「豊」がついた由来が述べられている。
景行天皇が今の中津で一夜をあかしたとき、白鳥が餅となり、またたく間にその餅が数千の里芋になったので、土地の豪族が豊国直(あたえ)の名と姓をもらったという話である。要するに産物が豊かなのである。
大分は仏教伝来のころに注目される動きがあった。用明天皇のとき、蘇我馬子が重用しようとした豊国法師(とよのくにのほうし)も不思議な人物だ。
大分の豊かさの秘密の一つは地理的条件にある。瀬戸内海に面していて、近畿への海上交通の出発点である。記紀の伝説のうえとはいえ、イワレヒコ(神武)の武装船団の東進にさいして、水先案内となったの豊予水道を根拠地にしていたシイネツヒコ(ウズヒコ)であり、その子孫が定着して倭直(やまとのあたえ)となった。奈良県天理市の大和古墳群は倭直(やまとのあたえ)の墓地といわれている。水上交通の技術者集団が存在していたという。