奈多鑑基(あきもと)

奈多氏は豊後国安岐郷の八幡奈多宮の大宮司家である。大永2(1522)年、大友家臣田北親員(ちかかず)の子で、田北鑑生(あきなり)の妹を、鑑基はもらっている。大友義鑑(よしあき)の名をもらい鑑基と名のった。八幡奈多宮大宮司を継いだ鑑基は、義鑑の子義鎮(よししげ・宗麟)から寺社奉行に任ぜられた。鑑基の娘は大友宗麟の妻となり、義統(よしむね)を産んだ。鑑基の子鎮基(しげもと)は宗麟の娘を妻とし、両家は姻戚関係で結束した。また鑑基の次男田原親賢(ちかたか・紹忍)は義統の重臣として活躍した。
「雪江院は、俗名奈多大和守鑑基と申すなり。其頃の当領主にて豊前豊後の内にも処々に領地ありしとなり。」閑居囗号 正統元年諏訪拙斎
宇佐宮の荘園は弥勒寺領を合わせたものが2693町歩余で、豊後国全面積の3分の1、荘園の46%弱を占め、絶大な権勢をほこっていた。九州最大の荘園領主であった。
 永正5(1508)年、大内義興は管領となり、翌年豊前守護職に復した。天文3(1534)年4月、大内義興は3千余の兵をもって宇佐郡から豊後を攻めさせた。大牟礼山(おおむれやま)、勢場ケ原(せいばがはら)の戦いとなった。南北朝末期頃、豊前・筑前の守護職は大内氏であった。義鎮(よししげ)が世を継いだ頃、大内義隆は、中国の周防、長門、安芸、備後、石見の5ケ国の守護職で豊筑二国を加えると七ケ国のの大大名であった。大友氏が奈多氏を重要視した直接の原因は宇佐宮と結ぶ大内氏に対抗するためであった。

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  寿宝山明星院神宮寺の不動明王
寺社奉行として業績
 国主たるものが一国を治むるに当り、第一に神社仏閣に祈願する。かかる寺社を管理する奉行たる任務は誠に重大である。一国を左右する宇佐宮に対し、奈多氏と姻戚となり、奈多鑑基を寺社奉行にしたのはそれなりの戦略があった。大友領知下に於ける社寺の神人供僧の管理、領地に関する納金・人事に関する一切を司る職分であった。
 奈多宮神地並神領
[神地] 中津の住田村、田染郷、朝来村、野辺村、奈多村
[神領] 速見の竈門、豊後の津守、下竹田、龍王、津房、馬城、長洲。三万石という。

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