大友氏を最後まで支えた田原紹忍

 奈多鑑基の次男・田原親賢(ちかたか)[紹忍(じょうにん)]。
嫡男の田原新七郎は宗麟に仕えていたが、大友館に人質となっていた麻生七郎を虐待したため、永禄8(1565)年、その恨みから七郎に刺殺された。七郎は直後切腹した。翌年、七郎の父・豊前高尾城主麻生親政(ちかまさ)は大友家に反旗を翻したので、親賢(ちかたか)は宇佐・下毛勢[赤尾賢種(あかおかねたか)等]を率いたこれを攻め立てた。親政は毛利氏へ援軍を求めようとしたが、失敗し、2月に高尾城は落城し、滅んだ。
 親賢は、謀反の疑いの長野筑後守討伐や戸次鑑連(べっきあきつら)、臼杵鑑速(うすきあきはや)らとともに門司城攻めにも加わっている。天正期には、豊前、肥前、肥後をまかされ、その処遇は破格であった。「フロイス日本史」によれば、最盛期には親賢だけで7,000人の兵力を抱えていたとされる。少なくとも親賢単独で1万石を越える大名並みの領地を持っていたという。その所領は大友家中でも随一とされる。

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しかし、天正6(1578)年の耳川の戦いで、島津氏に大敗をする。事実上、大友一族はしていく。島津方の史料では「大友方で最も奮戦していたのが田原紹忍」と記述している。ともあれ妙見嶽城に戻った紹忍は敗戦の責任を追及され、勢力の巻き返しを図る田原本家の親宏の主張で親宏から奪っていた所領を没収された。天正9(1581)年には廃嫡した親虎に代わり、宗麟の子で自身の甥にあたる大友親盛を養子に迎え、家督を譲ったが、田原本家の田原親貫[ちかつら・親宏養子]が謀反を起こすと、それの討伐にあたるなど、引き続き大友氏のために尽くした。

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 島津氏の豊後侵攻の際には妙見嶽城(現・院内町)を親盛に任せ、高崎山城を守備している。後に大友家の家督を継いだ大友義統(よしむね)が府内を脱出した際にはこれを高崎山城、ついで親盛の守る妙見嶽城へと送った。義統は吉統(よしむね)と改名する。戦後も吉統の側近として、天正15(1587)年の宗麟の葬儀の出席や吉統の嫡子・大友義乗(よしのり)の豊臣秀吉への謁見に随行している。

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